ビートルズ解散理由の真実!オノ・ヨーコとは別の人物が最大の黒幕だった?

ビートルズ解散といえば「オノ・ヨーコが原因」「音楽性の違い」などが一般的に語られてきました。

しかし、最新の調査や証言を丹念に追うと、それは表面的な説明に過ぎないことが分かります。

真実はもっと複雑で、ビジネスの裏側で進行していた権力闘争こそが決定打でした。

その中心にいたのが“黒幕”アレン・クラインです。

そこで今回この記事では

  • ビートルズ解散の真実・財務問題、楽曲権利、3対1の分裂構図

について、複雑な裏側を最新研究から徹底解説しまので、ぜひ最後まで読んでいってください!

それでは、早速始めましょう!

目次

ビートルズ解散理由の真実


アレン・クライン:知られざる「真の悪役」

多くのファンが「解散の元凶=ヨーコ」と信じていますが、実際にビートルズを崩壊に追い込んだのはビジネスマネージャーのアレン・クラインでした。

  • 巧妙な罠:クラインは「20%しか取らない」と甘い条件を示しながら、複雑な契約でアーティストを縛りつけ、最終的に資産を吸い上げる手法を確立。
  • ハゲタカ的手法:困窮するアーティストを「救済」するふりをして、会社を乗っ取り財産を奪う。
  • 法廷闘争の種:ビートルズも例外ではなく、後に解雇された際には1900万ドルを請求し、最終的に約500万ドルを手切れ金として手にしました。

ポール・マッカートニーの孤立と「3対1」の構図

1969年、クラインを巡ってバンドは分裂。

ジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターはクライン支持。

一方でポール・マッカートニーだけが猛反対しました。

実は、ミック・ジャガーがポールに「人生最大の過ちになる」と警告していたにもかかわらず、3人はクラインと契約。

ポールは「この瞬間、ビートルズの中に初めて絶対に折り合えない溝ができた」と語っています。


ノーザン・ソングス問題と財務圧迫

ビートルズの楽曲権利を握っていた「ノーザン・ソングス」。

共同創設者ディック・ジェイムズが裏切り、持株をATVに売却したことで、ジョンとポールの作品の権利が外部の手に渡ってしまいました。

さらに、当時イギリスの所得税は最高90%。

Apple Corpsの放漫経営も重なり、財務問題は深刻化。

バンドは音楽よりも金銭トラブルに翻弄されていきました。


『Get Back』が示した「仲の良さ」という逆説

2021年のピーター・ジャクソン監督のドキュメンタリー『Get Back』で明らかになったのは、セッションは必ずしも険悪ではなかったという事実です。

映像には、4人が笑い合いながら演奏する場面も多く映されていました。

つまり、音楽的な不仲が解散の原因ではなかったのです。


ジョージ・ハリスンの戦略的行動

ジョージがビリー・プレストンを連れてきた理由は「演奏のため」だけではありませんでした。

外部のミュージシャンがいることで、ジョンとポールが真剣に取り組み、喧嘩を避けるようになるという心理的効果を狙ったのです。

これは「While My Guitar Gently Weeps」にエリック・クラプトンを招いた時と同じ戦略でした。


法的解散とクラインの最後の一撃

ポールが1970年に「脱退」を発表した時点で実質的に解散でしたが、法的な解散は1975年までずれ込みました

理由はクラインとの複雑な契約と訴訟です。

ポールは他の3人を相手に裁判を起こし、和解まで5年を要しました。

この混乱が「ビートルズ再結成」の可能性を完全に潰したのです。


ジョン・レノンの後悔

1973年頃、ジョンは「ポールの言っていたことが正しかったかもしれない」と語っています。

さらにクラインの会社ABKCOを「grABKCo(grab=強奪)」と呼び皮肉りました。

ここでようやく、ポールが唯一の正しい判断をしていたことが認められたのです。

解散までの「年表」(1967〜1975)

解散劇を時系列で追うと、複雑な要因がいかに積み重なったかが鮮明になります。

  • 1967年8月27日:マネージャー、ブライアン・エプスタイン急逝。バンドの指導力を失う。
  • 1968年:Apple Corps設立。しかし経営が混乱、莫大な赤字を生む。
  • 1968年11月:ジョージが「While My Guitar Gently Weeps」でエリック・クラプトンを招く。外部ミュージシャン戦略の始まり。
  • 1969年3月:ディック・ジェイムズがノーザン・ソングスの持株をATVに売却。楽曲権利を失う大事件。
  • 1969年5月:ミック・ジャガーがポールに「クラインを信用するな」と忠告。
  • 1969年5月8日:ジョン、ジョージ、リンゴがアレン・クラインとの契約を強行。ポールのみ反対で「3対1」の構図が固定化。
  • 1969年1月〜2月:ゲット・バック・セッション(のちに『Let It Be』)。険悪説が広がるが、実際には笑顔も多い。
  • 1969年8月:アルバム『Abbey Road』録音。事実上最後のスタジオ作。
  • 1970年4月10日:ポールが脱退を公表。事実上の解散。
  • 1970年5月:アルバム『Let It Be』発表。バンドとして最後の作品。
  • 1971年:ポール、解散確認のため他の3人を相手に訴訟を起こす。
  • 1973年:ジョン、クラインへの不信を公言。「ポールが正しかった」と認める。
  • 1973年12月:ジョージ、リンゴもクラインと決別。クラインは損害賠償を請求。
  • 1975年12月29日:正式に解散契約に署名。法的にビートルズが終了。

まとめ

調査の結果、ビートルズ解散は単一の要因ではなく、以下の複雑な要素が重なり合った結果でした。

  • ブライアン・エプスタインの死による指導力の喪失
  • イギリスの重税とApple Corpsの財務崩壊
  • ノーザン・ソングス問題による楽曲権利の喪失
  • アレン・クラインによる経済的搾取
  • 意思決定の「3対1」構図

その中でも、最大の黒幕はやはりアレン・クライン。

彼さえいなければ、ビートルズは続いていた可能性があったのです。

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