1985年8月12日、日本航空123便(ボーイング747SR-100)が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落。
乗客乗員524人中520人が死亡し、航空史上最悪の単独機事故となりました。
この中には、「上を向いて歩こう」で世界的に知られる歌手・坂本九さん(享年43)も搭乗しており、帰らぬ人となりました。
国民的スターの突然の死は、日本中を深い悲しみに包みました。
そこで今回この記事では
- 公式発表では説明できない数々の疑問点・生存者証言や科学的矛盾
をもとに真相に迫りましたので、ぜひ最後まで読んでいってください!
それでは、早速始めましょう!
坂本九の飛行機事故・日航機123便の謎!あまり知られていない真相に迫る!

あまり知られていない事実と矛盾点
1. 生存者証言が示す「急減圧」の違和感
唯一の乗務員生存者・落合由美さんの証言は、公式報告と食い違います。
- 機内に広がった霧は「薄く、すぐに消えた」
- 氷点下40℃に達するはずの急激な温度低下も感じなかった
- 「振動もなく、荷物も飛ばなかった」
公式が説明する“激しい急減圧”とは一致しない状況が語られています。
2. 救助が16時間も遅れた不可解さ
墜落は18時56分。
しかし生存者発見は翌朝10時54分でした。
- 米軍機は現場上空に到達していたが「作戦中止」命令で撤退
- 自衛隊も「山が赤く燃えている」と確認していながら夜明けまで救助を開始せず
- 報道では「長野県に墜落」など誤情報が流れ続け、現場特定が意図的に遅らされた疑惑も
この空白の16時間が、多くの命を奪った可能性は否定できません。
3. 事故調査報告書の科学的矛盾
「圧力隔壁の破損」という公式説にも疑問があります。
- ボイスレコーダーに酸素マスク装着や緊急降下手順の記録なし
- 減圧警報は実際には「離陸警報」の可能性
- 圧力隔壁に「2㎡の穴が開いた」証拠は見つからず
科学的な整合性に欠けると指摘されています。
4. 目撃された「オレンジ色の物体」
複数の目撃証言や写真で、事故機に接近する「オレンジ色の飛行体」が報告されています。
- 自衛隊ファントム機が123便を追尾していたという証言
- 訓練用ミサイルや標的機はオレンジ色に塗装されていた
この“飛来物”が事故と関係していたのか、真相は今も闇の中です。
5. 墜落現場の異常な焼損と謎の夜間作業
現場で検視を行った医師の証言では、通常の航空事故では見られない“完全炭化”した遺体が多数。
さらに「ガソリンとタールを混ぜたような異臭」が漂っていたといいます。
また、公式には「翌朝まで作業なし」とされていますが、夜間に何らかの活動が行われていた痕跡が残されています。
6. フライトレコーダーをめぐる不可解な処理
重要証拠であるフライトレコーダーやボイスレコーダーは、報道陣の目を避けるため“ゴミ袋”に入れて運ばれたと報じられています。
さらに遺族が求めるボイスレコーダー生データの開示も、現在に至るまで拒否されたままです。
7. 生存者が語る「墜落直後の声」
落合さんの証言では、墜落直後に多くの声が聞こえていました。
- 「お母さん」「早くきて」など必死の叫び
- 「僕は頑張るぞ」という励まし合う声
- 生存者が手を振ったにもかかわらず、ヘリコプターは去っていった
もし救助が早ければ、助かる命はもっとあったかもしれません。
政治的・社会的背景
事故当時、日本は防衛費の「GNP比1%問題」で揺れており、自衛隊に不信感が強い時代でした。
もし事故に軍事的要素が関与していたなら、政治的大問題になりかねなかったのです。
さらに翌月には「プラザ合意」が結ばれ、日本経済は円高不況に突入。
ボーイング社はその後、日本市場で大きなシェアを獲得しました。
現在も続く疑問と課題
2015年には相模湾で123便の残骸とされる物体が発見されましたが、政府も日航も調査を行っていません。
尾翼が見つかれば、公式説を覆す可能性があります。
また、事故から40年近く経った今も、多くの情報は秘匿されたまま。
遺族や専門家の再調査要求は繰り返し無視されています。
まとめ
坂本九さんを含む520人の犠牲者を出した日航機123便墜落事故には、未解明の疑問が数多く残されています。
政府が透明性を持って情報を公開し、科学的かつ客観的な再調査を行うことこそが、犠牲者の無念を晴らし、未来の航空安全を守る唯一の道です。
真実を知ることは、坂本九さん、そして520人全ての命への責任ではないでしょうか?
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