八王子スーパーナンペイ事件の被害者・稲垣則子さんとは?知られざる人生と人物像

1995年7月30日に起きた「八王子スーパーナンペイ事件」。
3人の命を奪ったこの凄惨な事件から、まもなく30年が経とうとしています。

その中で特に注目されるのが、当時47歳で犠牲となった稲垣則子(いながき のりこ)さん
報道では「店長」「被害者」とだけ語られがちな彼女ですが、その人生にはあまり知られていない“強さと再生の物語”が隠されていました。

今回この記事では

  • 八王子スーパーナンペイ事件の被害者・稲垣則子さんの波瀾の人生と最期の勇気

に迫りますので、最後までご覧頂けると幸いです。

目次

八王子スーパーナンペイ事件の被害者・稲垣則子さんの知られざる人生と人物像

■ 波瀾万丈な人生の軌跡:集団就職から東京へ

稲垣則子さんは、1964年(昭和39年)、15歳のときに福島県から集団就職で上京しました。
家族は「めんこい、めんこいで育ててね」と送り出しながらも、寂しさのあまり駅には見送りに行けなかった──。
そんなエピソードが、彼女がどれほど家族に愛されて育ったかを物語っています。


■ 夜の街での成功と信頼:「琥珀」のナンバーワンホステス

上京後、八王子市内の高級クラブ「琥珀(こはく)」で働き始めた稲垣さん。
抜群の気配りと接客で瞬く間に人気ホステスとなり、“ナンバーワン”あるいは“ナンバー2”の座に君臨したといわれます。

東京新聞の取材によれば、彼女は常連客からの信頼も厚く、
「稲垣さんの笑顔を見に来る人が絶えなかった」と証言されています。


■ スナック経営と転機:「わかお」に込めた夢

1984年頃、稲垣さんは八王子の繁華街にスナック「わかお」をオープン。
地元の常連に愛される人気店として繁盛しましたが、バブル崩壊後の不況により、1994年に閉店を余儀なくされました。

その後は複数の男性パトロンとの間で金銭トラブルを抱えていたとも報じられています。
ただし、彼女の周囲の人々は「人情に厚く、誰にでも頼られやすい性格だった」と語っており、
単なるトラブルメーカーではなく、“面倒見の良い姉御肌”な人物像が浮かび上がります。


■ 人生をやり直す決意:介護福祉士への挑戦

あまり知られていない事実としては、
稲垣さんは夜の世界を離れ、介護福祉士の資格取得を目指して勉強していたという事実があります。

事件前夜、行きつけのスナックで彼女はこう語っていたといいます。

「介護士の試験に受かったら、もう一度やり直したいの。」

再出発への希望を抱いていたその矢先──運命は残酷にも、彼女を事件の現場へと導いてしまいました。


■ スーパーナンペイ勤務の裏側:危険を感じていた店

稲垣さんは一度スーパーナンペイを退職していました。
しかし、店の役員からの強い要請で復帰したのが事件当日でした。

彼女は知人に店の警備が甘くて怖い」「レジのお金が毎日1万円ずつ合わないと漏らしていたとも伝えられています。

事件は、まさにその不安が現実となった瞬間でした。


■ 最期の瞬間──金庫を開けなかった勇気

犯人は稲垣さんに金庫を開けるよう強要しました。
しかし彼女は「金庫を開けなかった」。

その結果、金庫のそばで頭部を2発撃たれ、命を落としました。

さらに産経新聞の報道によると、
腕に防御創と思われる皮下出血があり、犯人に抵抗していた可能性が高いといいます。

彼女は最後まで屈せず、犯人に立ち向かい、背後にいた女子高生2人を守ろうとしたのかもしれません。


■ 最後の言葉:「また来るね」

事件前日の7月29日。
稲垣さんは行きつけのスナックを訪れ、「また来るね」と笑顔で言い残しました。
その穏やかな表情を、当時の店員(83歳)は今も忘れられないと語っています。

「夜の世界で働いていた頃と比べて、とても落ち着いた雰囲気だった」
──それは、新しい人生を歩み始めようとしていた証だったのです。


■ 再評価されるべき人物像

30年経った今も、事件をめぐる噂や憶測は尽きません。
しかし、実際の稲垣則子さんは──

  • 福島から上京した努力家
  • 水商売で成功した実力者
  • 再出発を誓った意志の強い女性
  • 最後まで犯罪者に屈しなかった勇気の人

だったのです。

【年表】稲垣則子さんの人生の軌跡(1964〜1995)

年代出来事詳細
1964年(昭和39年)・15歳福島県から集団就職で上京家族に見送られ、東京での生活をスタート。めんこい娘として育ち、初の上京に家族は涙。
1970年代前半八王子市内のクラブ「琥珀」で勤務開始高級クラブでホステスとして頭角を現す。「ナンバーワン」または「ナンバー2」に上り詰める。
1984年頃スナック「わかお」開店八王子の繁華街に自身の店を構える。地元客に愛される人気店に。
1990年頃経営難・閉店バブル崩壊の影響で経営が悪化。店を閉じざるを得なくなる。
1992〜1994年金銭トラブル・人間関係の複雑化複数の男性パトロンや知人との関係が報じられる。信頼関係と誤解が交錯する時期。
1995年春介護福祉士の資格取得を目指して勉強夜の世界から離れ、「第二の人生」を目指して努力していた。
1995年7月29日(事件前日)行きつけのスナックで「また来るね」と笑顔再出発を前に、周囲に穏やかな様子を見せる。
1995年7月30日(事件当日)スーパーナンペイ勤務中に殺害される一度退職していたが、店からの要請で一時復帰中。金庫を開けるよう迫られるが拒否し、銃撃され死亡。

【噂と事実の比較表】稲垣則子さんをめぐる誤解と真実

噂・誤解事実・裏付け
「金銭トラブルが多く、危険な人脈があった」一部は事実だが、周囲の証言では“面倒見がよく頼られやすい性格”だった。トラブルよりも“人助け”が多かった。
「水商売時代の交友関係が事件と関係している」警察・報道いずれもその線は否定。事件との直接関係は見つかっていない。
「夜の世界に未練があった」実際は夜の仕事を辞め、介護福祉士の勉強を開始。周囲には「もう夜の仕事は終わりにしたい」と語っていた。
「金庫を開けずに撃たれたのは頑固だったから」解錠拒否は“勇気と責任感”によるもの。職務として金庫を守り、若い女子高生アルバイトを庇った可能性も高い。
「孤独な人生を送っていた」福島の実家とは連絡を取り続け、上京後も友人が多かった。特にスナック仲間からは慕われていた存在。

まとめ

稲垣則子さんの人生は、
「たとえ過去がどんなものであっても、人は何度でもやり直せる」
という希望のメッセージを私たちに残しています。

事件の真相はいまだ闇の中ですが、
彼女の勇気と生き方は、忘れられてはならない“人間の尊厳”そのものです。

心から哀悼の意を表します。

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