1989年11月6日午後6時45分、俳優・松田優作さんは西窪病院で「膀胱癌の腰部転移」により、わずか40歳の若さでこの世を去りました。
日本映画史に燦然と輝く存在だった彼の死は、多くのファンに衝撃を与えました。
しかし、報道で語られた「膀胱癌による死去」の裏には、あまり知られていない事実が隠されていたのです。
松田優作の死の原因に隠された真実

初期症状と“誤診”の影
松田優作さんが最初に血尿に気づいたのは1986年春。
しかし、当時は「膀胱炎」と誤診され、治療の方向性を誤ってしまいます。
本格的に病院を訪れたのは1988年9月27日。
西窪病院泌尿器科を受診した際には、すでに膀胱の4分の1が「移行上皮がん(TCC)」に侵されており、進行は深刻な段階に達していました。
医師からの告知 ―「命か、映画か」
検査結果を受けた医師は、松田さんに「命を優先するなら手術を。ただし、映画は諦めることになる」と伝えました。
俳優にとって残酷な究極の選択です。
しかし松田さんは動揺を見せず、静かにこう告げます。
「家族には病気を告げないでください。そして、強い薬も使わないでください」
彼が選んだのは「命」ではなく、「映画」でした。
病を隠して挑んだ『ブラック・レイン』
その理由は、念願のハリウッド作品『ブラック・レイン』が控えていたからです。
松田さんは病状を誰にも告げず、リドリー・スコット監督、マイケル・ダグラスと共演するこの作品に全身全霊を捧げました。
撮影現場では、病魔に蝕まれながらも一切弱音を吐かず、役を全うしたといいます。
奥多摩温泉での最後の休養
撮影前、松田さんは奥多摩の松乃温泉「水香園」に滞在しました。
台本を手に温泉に浸かりながらも、「身体が痛くて仕方ない」と繰り返していたと女将は証言しています。
役者としての情熱が身体の限界を超えていたことが、このエピソードからも伝わってきます。
現代医学なら救えた命
大阪医科大学の専門医によれば、もし当時「膀胱温存療法」が確立していれば、松田さんの病気は90%以上の確率で完治できた可能性があるといいます。
医学の進歩があと数年早ければ、彼は生き延び、さらなる伝説を築いていたかもしれません。
年表:松田優作の病気発症から死去まで
- 1986年春
血尿に気づく。しかし当時は「膀胱炎」と誤診され、病状は見逃される。 - 1987年〜1988年前半
血尿や体調不良が断続的に続くも、仕事を優先し病院通いは限定的。 - 1988年9月27日
西窪病院泌尿器科を受診。「血尿が続き、尿が出なくなった」と訴える。
検査で「移行上皮がん(TCC)」が判明し、膀胱の4分の1が侵されていた。 - 1988年秋
医師から「命か映画か」の選択を迫られる。松田は「映画」を選び、病を家族にも伏せる決断を下す。 - 1988年末
念願のハリウッド作品『ブラック・レイン』撮影開始。体調悪化を隠しながら現場に立つ。 - 1989年夏
奥多摩の松乃温泉「水香園」を訪問。「身体が痛くて仕方ない」と繰り返し、温泉に浸かりながら台本を読み込む。 - 1989年秋
がんは腰部に転移。歩行や生活に支障が出るほど病状は悪化。 - 1989年11月6日 午後6時45分
西窪病院にて死去。享年40。死因は「膀胱癌の腰部転移」。
法名は「天真院釋優道」とされた。
まとめ
松田優作さんの死因にまつわる最も重要な事実は、彼が「命よりも映画」を選んだこと。
そして、その選択を最後まで貫いたことです。
現代医学なら救えた可能性があったからこそ、その死はあまりにも早すぎたものでした。
彼の生き様は、今も俳優たちの道標であり、観る者の心を揺さぶり続けています。
松田優作という存在が伝説として語り継がれるのは、その“役者魂”にほかなりません。
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