「世界のホンダ」を築いた創業者・本田宗一郎。
彼の人生は華々しい成功ばかりが語られがちですが、その裏には血のにじむ挫折や、時に“掟破り”の策まで動員した壮絶な挑戦が隠されていました。
今回取り上げるのは、戦前のトヨタとのやり取り、そして戦後のマン島TT挑戦という二つの転機。
実はこの二つが、後に“世界のHonda”を生む決定的瞬間だったのです。
本田宗一郎の知られざるエピソ-ド
東海精機とトヨタ──99%不合格から始まった逆境
1937年、本田宗一郎は「東海精機」を設立し、トヨタ自動車にピストンリングを納めることを目指しました。
しかし最初に納入したリング50個のうち、合格はわずか3個。
つまり99%が不良品。
当時のトヨタは品質に厳しく、当然のように突き返されます。
この屈辱から宗一郎は夜間講座に通い、鉄鋼や冶金学を一から学び直しました。
「必要なら学び、改良し、やり直す」。
この泥臭い執念が、後のホンダ品質主義の礎となります。
最終的に安定供給を果たすまでに漕ぎつけましたが、その過程で工場は空襲で焼失。
宗一郎は東海精機の株をトヨタ側へ売却し、ゼロから再起を図ることになります。
マン島TT宣言──「一本のネジ」に魂を込めろ
戦後のホンダはバイクメーカーとして急成長。
しかし宗一郎の視線はすでに“世界”に向いていました。
1954年3月、社内に向けて発表したのが「マン島TT出場宣言」。
「ホンダの未来はこの挑戦にかかっている。一つのネジを締める時の心構えが、我々の道を切り開く」
社員たちに送られた文書には、創業者の魂の叫びが刻まれていました。
世界最高峰のレースに挑むことで、日本製バイクの評価を根本から変える。
その覚悟は尋常ではありませんでした。
衝撃の視察──「3倍の性能差」との対峙
同年6月、宗一郎はマン島に渡り、実際にレースを視察します。
そこで目にしたのは、自社の想定を3倍上回るパワーを持つ欧州メーカーのマシン群。
最初は愕然とし、「あまりの差に失望した」と吐露した宗一郎。
しかし一晩寝て思い直します。
「彼らには歴史がある。だが私たちには“見た”という経験がある。それが我々の歴史になる」
この逆境を「学びのチャンス」と転換する姿勢こそ、宗一郎の真骨頂でした。
偽装渡航と“マトン地獄”──知られざるTT初挑戦
1959年、いよいよホンダはマン島TTにチームを派遣します。
しかし当時の日本では外貨規制が厳しく、自由に資金を持ち出せない。
そこで宗一郎たちが選んだ手段は、なんと「Okura Trading名義の偽装渡航」。
公式には貿易会社の社員として渡航し、資金を確保しました。
現地で待っていたのは過酷な日々。
食料は保存が利かず、滞在中はほぼマトン(羊肉)ばかり。
現地の人に食事の話をすると「Baaa」としか答えられなかったという笑い話も残されています。
それでも彼らは完走を果たし、6位・7位・8位・10位に入り、コンストラクター部門でチーム賞を獲得。
当初「日本製=安かろう悪かろう」と嘲笑されていた評判は一変し、「Hondaは世界に通用する」という評価へと変わっていきました。
まとめ
トヨタに突き返された不良リング、偽装渡航で挑んだマン島TT。
これらの裏にあるのは、挫折を糧にする強烈な現場主義と、目的のために手段を選ばぬ柔軟さです。
本田宗一郎の人生は、成功物語よりもむしろ、「不合格から立ち上がる姿」と「無謀に見える挑戦を現実に変える知恵」にこそ真価がありました。
そしてそれは今もなお、ホンダという企業文化に脈打ち続けています。
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